宇部の幕末維新 宇部にゆかりのある人物を紹介します。

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福原越後元僴 ふくばらえちごもとたけ

福原越後公の木像

福原越後公 辞世の句

長州藩で代々家老を継ぐ名門 宇部を領地としていた

越後公は、文化12年(1815)、長州藩の支藩徳山藩の藩主毛利広鎮の六男として生まれる。本名は元僴(もとたけ)。

11歳以降は、長州藩寄組の佐世(させ)家の養子として過ごし、嘉永4年(1851)江戸御留守居役に。
安政5年(1858)年藩命で藩重鎮の永代家老福原家の家督を継ぎ、この時から宇部の領主となった。

福原氏の家系は、毛利氏と同様に鎌倉時代の名臣大江広元を祖としており、その後は国家老、加判役として、藩主毛利敬親公の補佐役となり尊皇攘夷運動を推進した。福原家は、代々毛利家を支え続け、江戸時代から旧宇部村などの領主として、福原家の菩提寺宗隣寺の建立、常盤湖の築堤や真締川の開通、鵜ノ島開作など宇部発展の礎を築いてきた。
上宇部中尾の屋敷跡は現在史跡公園になっている。

越後公は24代当主で、家老の重職を務めながら、文武両道の教育施設「維新館」を設けるなどして領地宇部の発展にも尽くした。その人柄は、「寡黙で果敢。温厚で幕末初期の藩政を見事に運営した名臣」「決断は鋭く采配は見事、主君に忠実な名家老」と伝えられている。

元冶元年(1864)の7月の禁門の変では、総大将として伏見街道から京都を目指したが、途中大垣藩との交戦により越後公は銃弾を頬に受け敗退し、帰藩した。同年11月12日禁門の変の責任を負い、岩国藩の龍護寺(現在の清泰院)で切腹し、50歳の生涯を閉じた。越後公の首級は、徳山で自刃した國司、益田両家老の首とともにも広島の幕府軍の元へ送られた。
辞世の句からは、忠義を尽くしながらも「藩主に背いた不忠不義」の汚名を着ての最期がこの上なく悔しかったことが伺える。

墓所は宗隣寺にある。慶応元年(1865)年5月に琴崎八幡宮に創祀され、翌慶応2年(1866)11月完成の維新招魂社(後の宇部護国神社)の主神として遷座された。汚名は慶応2年8月、罪状焼棄の命が下り破棄された。

福原越後公 ゆかりの地

福原家萩屋敷門

福原家萩屋敷門

山口県立萩高等学校北側に、朱色に塗られた福原家上屋敷表門が残されている。上級武士にふさわしい風格と規模を有している。
建築は江戸中期と推定。

萩市堀内 萩博物館から徒歩8分

宗隣寺・墓所

宗隣寺・墓所

宗隣寺は、唐から来た為光(威光)和尚が宝亀8年(777)に造った松江山普済寺の跡地に、寛文10年(1670)に福原氏の菩提寺として建てられた。池泉式の庭園・龍心庭は国の名勝で、24代当主越後公夫妻の墓地がある。墓地は、毎年11月に1日だけ一般公開される。

宇部市営バス「小串」下車 徒歩3分 / JR宇部新川駅から車で10分

お問い合わせ TEL : 0836-21-1087

関連リンク : 宇部市ホームページ「観光案内」

宇部護国神社

宇部護国神社

福原越後公を主祭神とし慶応2年(1866)年、維新招魂社として創建。「城州伏水之役、不知所終」と刻まれた霊標があり、禁門の変で戦死し行方の分からない21柱を祀っている。

JR宇部新川駅から車で10分

お問い合わせ TEL : 0836-21-4543

関連リンク : 宇部護国神社ホームページ

福原越後公ゆかりの地 散策MAP

  • 宗隣寺に伝わる御駕籠
  • 宗隣寺に伝わる御駕籠
  • 越後公自刃後、ご遺体を福原家の菩提寺である宗隣寺まで運んだとされている御駕籠。
  • 維新館跡
  • 維新館跡
  • 元治元年(1864)、上宇部中尾で、教育熱心な越後公がもともとあった郷校青莪堂を廃して、文武の稽古場として新たに学館「維新館」を建てた。
  • 福原越後公像
  • 福原越後公像
  • 宇部護国神社内(平成22年建立)