宇部の幕末維新 宇部にゆかりのある人物を紹介します。

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國氏信濃親相 くにししなのちかすけ

國司信濃公の像

國司信濃公 辞世の句

実力で家老職に就いた優秀な若者 万倉を領地としていた

信濃公は、長州藩の家老で尊皇攘夷の大義を唱えた一人だった。

天保13年(1842)、寄組高洲元忠の次男として萩に生まれ、弘化4年(1847)、血縁のある寄組國司迪徳の養子となり、家督相続した。寄組の國司家は、当人の能力次第で一代家老ともなる家格。

万延元年(1860)、19歳の時に初めて万倉の領地に赴任し、家臣を率いて鉄砲調練を指揮。
文久元年(1861)、大組頭(旗本の指揮官)に任ぜられ、翌年には万倉岩滝で再び家臣らを調練、銃の発砲訓練を行った。
とくに文久3年(1863)2月の長井雅楽切腹の検視役からの2年間は、國司信濃親相の最も活躍した時代である。
4月には、22歳で緒組総支配を任命され、攘夷実行のために下関に出陣。
6月には家老に、そして赤間ヶ関防備総奉行に任ぜられた。
この時手元役だったのが高杉晋作。高杉が創設した「奇兵隊」を、後に藩からの解散命令を存続へと導いている。

元治元年(1864)2月、藩主敬親公より遍諱を受け「朝相」から「親相」となる。
6月5日の池田屋事件の報を受け、福原、益田両永代家老とともに京へ出陣。
嵯峨・天竜寺より攻めるが、会津、薩摩軍を中心とする幕府軍に敗れ、帰藩し藩主の命を待った。

万倉に帰還してわずか2日間の滞在後、徳山の澄泉寺(明治4年に廃寺)に幽閉され11月12日に切腹した。
自刃した三家老の中でも、最年少の23歳。若くして実力で家老職に就き、動乱の幕末を一気に駆け抜けていったあまりに早すぎる死だった。

菩提寺である天龍寺には、國司家の歴代当主の墓群とは別に、遺書の通り、信濃公と夫人の墓が並んでいる。居住跡には美登里神社が建立されている。

國司信濃公 ゆかりの地

國司信濃公の萩藩屋敷跡

國司信濃公の萩藩屋敷跡

現在の萩市立萩西中学校の西側半分が國司家の敷地であったとされている。閑静な住宅街に國司信濃公旧宅地の石碑が立っている。

萩市堀内 萩博物館から徒歩5分

天龍寺・墓所

天龍寺・墓所

國司家の菩提寺。本尊は千手観音である。往古「正楽寺」という伽藍があり、観音示現の霊場といわれた古刹。寺内には遺書の通り信濃公と弥佐子夫人の墓があり、歴代の墓群が並んでいる。

万倉ふれあいセンターから 1.5 km(徒歩17分)

万倉護国神社

万倉護国神社

國司信濃親相を御祭神とし、第二次世界大戦までに国難に殉じた204柱の英霊が祀られている。神社には切れ長の目で凛々(りり)しい信濃公の肖像画が飾られている。

万倉ふれあいセンターから 400m(徒歩5分)

お問い合わせ TEL : 0836-34-8353(宇部市観光・6次産業推進課)

関連リンク : 観光サイト「おいでませ山口へ」

國司信濃公ゆかりの地 散策MAP

  • 國司家居館跡(美登里神社)
  • 國司家居館跡(美登里神社)
  • ご神体は、万倉から徳山へ出立に際し詠み置いた歌の短冊と信濃公愛用の手鏡。
  • 広矛(ひろほこ)神社
  • 広矛(ひろほこ)神社
  • 万倉の天龍寺の側に位置し、信濃公は同社で必勝祈願を行い京都に進発したとされている。
  • 國司信濃公像
  • 國司信濃公像
  • 万倉護国神社内
    (國司信濃公殉難百年祭にて建立)